「 青苗貝塚 」 が物語る島の歴史
最終更新日:2023年8月30日
奥尻島に以前から住んでいる方は、「 青苗に貝塚がある 」
ということを聞いた覚えがあると思います。
でも、 「 青苗貝塚 」 は、いつの時代に、誰が、何のために
残したか、詳しくわからないという方が少なくありません。
そもそも 「 貝塚 」 っていったい何だろうと思っている方もい
るでしょう。
そこで、 「 青苗貝塚 」 の謎について、今現在わかっている
範囲でご紹介します。
「 貝塚 」 とは、昔の人が食べた貝をはじめとする様々な食べかすを捨てた 「 ゴミ捨て場 」 だと、一般的に多くの方に思われています。
でも、 「 青苗貝塚 」 は、青苗市街地ならばどこからでも望むことができる 台地 ( 高台 ) に位置しています。
本当に 「 ゴミ捨て場 」 なら、どこからでも望めるそんなに高い場所に、しかもそんな目立つ場所に設置するでしょうか。
本当に 「 貝塚 」 = 「 ゴミ捨て場 」 なのか疑問です。
実は 「 貝塚 」 は 「 ゴミ捨て場 」 ではなく、昔の人が食べ終えたもの、道具なら使い終えたものをほおむる 「 墓地 」 のような場所だったのです。
昔の人たちは、貝をはじめとする生き物や道具でさえ、人間と同じように 「 こころ 」 を持つと考えられ、信じられていました。
そうした生き物や道具をほおむり、とむらうのが 「 貝塚 」 だったのです。
「 貝塚 」 を 「 貝捨て場 」 と言わずに、 「 貝塚 」 と言っているのは、こうした意味があるからなのです。
「 貝塚 」 の存在から、古代の人が自然をうやまい、ものを大切にして生活していたさまがわかります。
「 青苗貝塚 」 は、 今から約1千年前 の貝塚といわれています。
1千年前とはずいぶん古いと思われるかもしれませんが、一般に多くの貝塚は 約8千年前から3千年前 などが主であるのに
対し、「 青苗貝塚 」 は極めて新しく、時代でいうと 「 平安時代 」 のものなのです。
しかし、この時代の貝塚というのは大変珍しく、当時としては北
海道でも最大規模のものといえます。
そしてそこから発見されたものから、当時の生活や社会を垣間見ることができます。
「 青苗貝塚 」 からは、圧倒的に 「 アワビ 」 の貝殻が多く出ており、また、動物の骨では、 「 アシカ 」 の骨が約9割以上を占めます。
日々の暮らしを営んだ跡にしては、あまりにも食物内容がかたよっていたようにみえます。
実は平安時代になると、様々な場所との海上交易が盛んになり
奥尻島の人々は産業として 漁業 を営んでいたようです。
平安時代の書物によると、北の海の特産品に、 「 干しアワビ 」 と 「 アシカの毛皮 」 があったと記述されています。
「 青苗貝塚 」 から出土したものから、当時の社会にみる活発な漁業の様子や交易活動が伺えてきます。
今から1千年前には、奥尻島には擦文文化 ( さつもんぶんか ) の担い手である 「 擦文人 」 が暮らしていました。
彼らをひと言でいうと、島に古くから住んでいた縄文人の子孫であり、その後の島の居住者となる 「 アイヌ民族 」 の祖先になる人たちです。
しかし、この頃は、島の人たちによる自発的な交易活動が活発化したため、本州の人たちやより北の人たちなど様々な人が移り住み、交易に従事していたようです。
まさに当時の島は、海を舞台に繁栄した 「 多民族 」 の国際社会だったのです。
※この内容は、奥尻町教育委員会発行 「 ふるさと奥尻通信 」 ( 第2号 ・ 奥尻町教育委員会主任学芸員 ・ 木村哲朗氏監修 ) を参考に紹介しています
ということを聞いた覚えがあると思います。
でも、 「 青苗貝塚 」 は、いつの時代に、誰が、何のために
残したか、詳しくわからないという方が少なくありません。
そもそも 「 貝塚 」 っていったい何だろうと思っている方もい
るでしょう。
そこで、 「 青苗貝塚 」 の謎について、今現在わかっている
範囲でご紹介します。
そもそも 「 貝塚 」 って何でしょうか ?
「 貝塚 」 とは、昔の人が食べた貝をはじめとする様々な食べかすを捨てた 「 ゴミ捨て場 」 だと、一般的に多くの方に思われています。
でも、 「 青苗貝塚 」 は、青苗市街地ならばどこからでも望むことができる 台地 ( 高台 ) に位置しています。
本当に 「 ゴミ捨て場 」 なら、どこからでも望めるそんなに高い場所に、しかもそんな目立つ場所に設置するでしょうか。
本当に 「 貝塚 」 = 「 ゴミ捨て場 」 なのか疑問です。
実は 「 貝塚 」 は 「 ゴミ捨て場 」 ではなく、昔の人が食べ終えたもの、道具なら使い終えたものをほおむる 「 墓地 」 のような場所だったのです。
昔の人たちは、貝をはじめとする生き物や道具でさえ、人間と同じように 「 こころ 」 を持つと考えられ、信じられていました。
そうした生き物や道具をほおむり、とむらうのが 「 貝塚 」 だったのです。
「 貝塚 」 を 「 貝捨て場 」 と言わずに、 「 貝塚 」 と言っているのは、こうした意味があるからなのです。
「 貝塚 」 の存在から、古代の人が自然をうやまい、ものを大切にして生活していたさまがわかります。
いつの時代に残されたものですか ?
「 青苗貝塚 」 は、 今から約1千年前 の貝塚といわれています。
1千年前とはずいぶん古いと思われるかもしれませんが、一般に多くの貝塚は 約8千年前から3千年前 などが主であるのに
対し、「 青苗貝塚 」 は極めて新しく、時代でいうと 「 平安時代 」 のものなのです。
しかし、この時代の貝塚というのは大変珍しく、当時としては北
海道でも最大規模のものといえます。
そしてそこから発見されたものから、当時の生活や社会を垣間見ることができます。
どんなものが出土されているのですか ?
「 青苗貝塚 」 からは、圧倒的に 「 アワビ 」 の貝殻が多く出ており、また、動物の骨では、 「 アシカ 」 の骨が約9割以上を占めます。
日々の暮らしを営んだ跡にしては、あまりにも食物内容がかたよっていたようにみえます。
実は平安時代になると、様々な場所との海上交易が盛んになり
奥尻島の人々は産業として 漁業 を営んでいたようです。
平安時代の書物によると、北の海の特産品に、 「 干しアワビ 」 と 「 アシカの毛皮 」 があったと記述されています。
「 青苗貝塚 」 から出土したものから、当時の社会にみる活発な漁業の様子や交易活動が伺えてきます。
このころは誰が住んでいたのですか ?
今から1千年前には、奥尻島には擦文文化 ( さつもんぶんか ) の担い手である 「 擦文人 」 が暮らしていました。
彼らをひと言でいうと、島に古くから住んでいた縄文人の子孫であり、その後の島の居住者となる 「 アイヌ民族 」 の祖先になる人たちです。
しかし、この頃は、島の人たちによる自発的な交易活動が活発化したため、本州の人たちやより北の人たちなど様々な人が移り住み、交易に従事していたようです。
まさに当時の島は、海を舞台に繁栄した 「 多民族 」 の国際社会だったのです。
※この内容は、奥尻町教育委員会発行 「 ふるさと奥尻通信 」 ( 第2号 ・ 奥尻町教育委員会主任学芸員 ・ 木村哲朗氏監修 ) を参考に紹介しています
青苗地区高台では多くの貝塚が発見されている
青苗貝塚のようす
お問い合わせ
教育委員会事務局
電話:01397-2-3890
FAX:01397-2-3891