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指定文化財について

最終更新日:2021年2月19日

新羅之記録(しんらのきろく)

北海道指定有形文化財 昭和45年2月12日指定
 初期の松前家の事績を記録する古文書で、寛永20年(1643年)に編纂された松前家系図を6代藩主の弟、松前景廣がその不備を正し、記述を補って作成された。北海道最古の歴史文書と言われる。上下2巻の巻物で、「家譜一・二」と記され、巻頭と巻末には源氏の氏神である新羅神堂の朱印が押される。「新羅之記録」とされる由縁である。別名「松前国記録」、「新羅記」とも。

青苗砂丘遺跡(あおなえさきゅういせき)

北海道指定史跡 平成20年3月18日定
 青苗砂丘に埋もれた6~7世紀頃のオホーツク文化の遺跡の存在が判明した。この文化は、サハリンやオホーツク海沿岸で栄えた文化で、舟で海上を移動したことにより遠い奥尻島まで到達したものと推測される。
 遺跡からは土器や石器の他に、人骨やクマの歯、本州産(島根県)の管玉や鉄製刀子など特徴的なものが発見され、列島の広範囲で交易が行われていたことを示している。砂丘の地下約2mの場所に遺跡が広がり、近年では平成5年(1993)の北海道南西沖地震津波を受けて削られたが、砂丘のおかげで後ろ側の住宅の被害が軽減するなど、自然の防波堤の役割も果たしている。オホーツク文化の南下を示す重要な遺跡である。


中央の松林が青苗砂丘遺跡 奥が青苗漁港

青苗遺跡出土品(あおなえいせきしゅつどひん)

北海道指定有形文化財 考古 平成29年3月31日指定

昭和51・52年度に青苗遺跡から出土した骨角器と土器119点が北海道有形文化財に指定された。道指定は「新羅之記録」、「青苗砂丘遺跡」に次いで島内3例目、考古遺物では初めてで、同部門では、檜山管内でも2例目。

遺跡は奥尻島南端、青苗地区の海を見下ろす段丘上に位置し、縄文時代と擦文時代の文物が出土する複合遺跡。海岸部へ続くゆるやかな斜面には、かねてより擦文期の貝塚が存在することが知られており、昭和初期のとある紀行文にも「鮑の貝塚」として登場する。

貝塚出土品の内、約8割がアワビの殻で、他にニホンアシカや魚類の骨、ウニの殻などが見つかっているが、それらに混じって、獲物を捕獲するために使用した漁労具である、クジラやシカの骨で造られた精巧な骨角器が多数出土し、研究者の注目を浴びている。

北海道の擦文時代は本州の平安時代に相当し、貝塚の時期は付近から出土した土器の特徴から11~12世紀頃のものと推定される。この頃はすでに貝塚が遺されるような時代ではなく、青苗の事例は極めて稀。そこから出た骨角器の多くは、銛頭と呼ばれる離頭銛の先端部分で、一部に鉄製の矢じりが残るものや、鹿角製の基部に装飾が施されたもの等があり、島に出入りしていた擦文人の漁労生活の一端を解明する好資料。擦文人は、島の名産品となるアシカの毛皮や干しアワビを用いて、手広く交易を行っていたものと推定される。
※奥尻町海洋研修センターにて一部を展示中

 擦文土器(左)と骨角器(右)

鍋釣岩(なべつるいわ)

なべつる岩の写真 奥尻町指定名勝 平成11年7月26日指定
 鮮新世(500万年前~200万年前)の地層を貫く安山岩で形成された奇岩。
 高さ約19mで、その形が鉄鍋の弦(つる)に似ているところから命名されている。岩は海底の火山活動に由来し、溶岩が噴出しかかったまま冷却されて固まり、後世に軟質だった周囲の岩盤が消滅し、溶岩部分だけが取り残されたもの。
 明治時代以前から岩に生えている植物はヒロハノヘビノボラズと言い、とげがあって、蛇が登れないというのが、命名の由来。震災の影響で若干崩れたため、脆弱な箇所を補強してある。

宮津弁天宮(みやつべんてんぐう)

奥尻町指定有形文化財 平成11年7月26日指定
 文政年間(1818~1829)に、宮津地区の漁民の手によって氏神として境内と社殿が創設され、海上安全と豊漁を祈願して弁財天が祀られた。その後、改めて広島の厳島神社より宗像三女神(※1)が祀られ、天保12年(1841)に祭神(長女の澳津島姫命)が奥尻地区に移され、現在の澳津神社となった。以降は「宮津弁天社」や「中津島神社」とも呼ばれる。古くは9世紀頃のオホーツク文化の遺跡(宮津遺跡)や、16~17世紀頃のアイヌの砦であるチャシ(宮津チャシ跡)が築かれていたと考えられ、その“チャシ”は“茶津”(宮津の旧名)の語源になったと言われる。奥尻海峡を行き来する舟を見渡せる場所であり、神社が建立される以前から奥尻島において重要な場所であったと思われる。
 社殿まで164段の急階段が伸びる。現社殿は1970(昭和45)年に改築されたもの。

(※1) 宗像三女神(ムナカタサンジョシン)
  • 澳津島比賣命(オキツシマヒメノミコト) =多紀理毘賣命(タギリヒメノミコト)、田心姫命(タゴリヒメノミコト)
  • 市杵島比賣命(イチキシマヒメノミコト)=狭依毘賣命(サヨリヒメノミコト)、弁財天
  • 湍津比賣命(タギツヒメノミコト) =滝津姫命(タキツヒメノミコト)、田寸津比賣命 神格:海の神、航海の神

丁字頭勾玉(ちょうじがしらまがたま)

奥尻町指定有形文化財 平成21年12月22日指定
 北日本で最大級の勾玉であり、丁字頭は北日本では非常に稀な出土例である。形状や特徴から古墳時代の西日本に由来する可能性がきわめて高い一級品の丁字頭勾玉である。糸魚川産のヒスイ原石を用いた丁字頭勾玉は近畿地方を中心とする西日本に多く発見され、古代における日本海交易の結果、奥尻島にもたらされたと考えられる。
 勾玉の頭部には4本の刻み線があり、紐を固定するためのものと想定される。丁字(クローブ)の実のような山形の形状に似ていることから、「丁字頭」と命名されたもの。
 ※奥尻島津波館で展示中

徳洋記念碑(とくようきねんひ)

奥尻町指定有形文化財 平成26年10月1日指定
 明治13年(1880)に青苗岬で英国軍艦が座礁した際、乗艦していた有栖川宮威仁親王の遺徳と国境を越えた救助活動の美徳を讃えるもの。親王が海軍少尉補として乗船し、訓練のため遠洋航海の途中、青苗沖に座礁した。親王は島に上陸し、島民や他国の軍艦とともに救助活動にあたった。
 青苗在住の三国十次郎は、この事績を後世に伝えようと精力的に情報収集に努め、昭和6年(1931)、徳洋記念碑が完成した。全長約17m、鉄筋RC造。
 昭和58年(1983)の日本海中部地震津波と、平成5年(1993)の北海道南西沖地震津波に耐えた近代建造物であり、奥尻の歴史を見守ってきた貴重な記念碑である。

青苗岬先端 徳洋記念緑地公園内

お問い合わせ

教育委員会事務局社会教育係
電話:01397-2-3890
FAX:01397-2-3891

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