遺物・遺跡

約8,000年前(縄文時代早期)~石組炉がつくられた時代

 奥尻島で最も古い人間の痕跡は今から8,000年前です。この時代は氷河時代が終わってそれほど経っておらず、今より少し寒いぐらいの気候でした。
 青苗遺跡F地区からは、この時期の土器や石器が数多く発見されています。中でも注目されるのは石組炉です。現在知られている限り、8,000年前に築かれた石組炉はほかにあまり例がありません。
 炉は水の流れる場所の近くに築かれ、炉からは、当時使われていた土器や、水中で網を固定する錘などがみつかりました。魚 などを捕ったのち、石組炉で土器を用いて煮たり茹ゆでたりしたようです。
 この時代の土器は二枚貝の殻を押しつけ たり引っかいたりして文様を描く貝殻文土器が用いられていました。
 漁で手に入れた海の幸を、貝殻の文様の付いた土器を用いて、煮炊きしていた…そんな、海に育まれた暮らしが、すでに約8,000年前から営まれていたのです。

 

約6,000年前(縄文時代前期)~山の幸に育まれた時代

  この時代、地球的規模で温暖化が進行し、島は緑豊かなブナの森に覆われてゆきました。ブナの森はブナを始めミズナラ、クリ、トチノキなど堅果類の宝庫です。人々は海の幸はもちろん豊かな山の幸をも積極的に用いて豊かな暮らしを営みました。
 
 青苗遺跡A地区からは、木の実をすり潰す道具である北海道式石冠(ほっかいどうしきせっかん)が一箇所から何百点も出土し、当時の人たちがたくさんの木の実を利用していたことが分かります。
  またこの時代の遺構のひとつに、青苗遺跡で発見された盛り土遺構があります。この遺構は、使い古した道具類を一箇所に集めて、火を焚き、土を被せて“埋葬”したモノの“墓場”です。そうした行為を同じ場所に何百年も繰り返し行ったために、結果、その場所が高く盛られました。
  盛り土遺構での彼らの行為から古代人のモノを大切にする心が伝わってきます。
  また、この時代は、円筒土器という、底の広い筒形の安定感のある土器が使われていました。この土器で大量に収穫した木の実を貯蔵していたようです。



約4,500年前(縄文時代中期)~集団墓地現れる

 この時代、地球的規模で寒くなり始め、奥尻島でも、木の実の採集・加工を中心とした暮らしを続けてゆくことができなくなったようです。このことは木の実をすり潰す道具の出土が少なくなっていることからも分かります。この時期、様々な人たちが新たな糧を求めて移動し、奥尻島に各地からいろいろな人と文化が入ってきました。
 
 この時代を代表する遺跡が砥石遺跡(現在の奥尻空港のあたり)です。ここからはこの時代として珍しい集団墓地が見つかっています。この集団墓地は様々な場所に住む人たちによって共同で使われていたようで、各地から島にやってきた様々な人々を一つに結びつける重要な祀りを行う場としても機能していました。
 島の各地で生活していた人々は祭りを通して団結し、厳しい時代を乗り切ろうとしたようです。

 

約2,200年前(続縄文時代)~海を介した交易がはじまる

 この時代になると、人々は新たな糧を求め、海を舞台に様々な交易を行うようになります。青苗B遺跡では、この時代の交易活動を偲ばせる作業場が見つかっています。
 作業場の中央には沢があり、沢を挟んで南側と北側に作業場は広がっていました。南側の作業場は海獣やカレイ、カサゴなどの魚類の骨が多く見つかり、海産物を加工した場であったようです。一方沢を挟んで北側では島の特産である頁岩(けつがん)という石器の原材料が多く見つかり、石材を取り出す作業が行われていました。
 ひょっとするとこの港で、石器の素材と海産物を物々交換していたのかもしれません。
 豊かな海の幸と、石器の素材など恵まれた鉱物資源。宝の島といわれた奥尻がいよいよ自然の恵みを背景に島外の人たちと積極的に交流する時代になります。
 

  
 

約1,300年前(オホーツク文化期ほか)~壮大な南北交流の時代

  この時代、海を通した交流はきわめて大規模になりました。南からはヤマト勢力に代表される本州の人々が、北からはオホーツク文化を伴う北方民族が、“宝の島”奥尻を目指してやってきたのです。
 その時の遺物を代表するのが、青苗遺跡出土の丁字頭(ちょうじがしら)勾玉であり、青苗砂丘遺跡などオホーツク文化の遺跡です。

 丁字頭勾玉は近畿地方を中心に出土する古墳時代の遺物で、古代ヤマトの文化の影響が奥尻に確実に及んでいることを意味します。一方で青苗砂丘遺跡はサハリンにそのルーツを持つオホーツク文化の最も南の拠点で、オホーツク式土器や独特の形の住居跡など多彩な文化が遺跡から見つかっています。
 この時代の奥尻島は様々な民族が行き来する、いわば“文明の十字路”であったのです。

約1,000年前(擦文時代)~青苗貝塚の時代

 この時代を代表する遺跡は、北日本で最も大きな貝塚、青苗貝塚です。
 この頃島の人たちは、アワビ漁とアシカ漁を積極的に行い、アワビは干しアワビに加工、アシカからは毛皮を採取して、本州(当時は平安時代)に“輸出”していました。貝塚からは左の写真に見られるように、膨大な数のアワビの貝殻やアシカの骨が見つかってます。
 一方、本州方面との交易で手に入れた、小刀や鉄なべのかけらなど、たくさんの鉄器も貝塚から出土しています。これらは干しアワビやアシカの毛皮などと物々交換で手に入れたもののようです。
 さらに、彼らは銑鉄を精錬して鋼(はがね)の漁具を制作する技術を持っていました。それは青苗貝塚よりも山側の地点に、鉄精錬跡が発見されたことで分かります。
 海獣は寒い海で棲息する生きもので、それを捕る鉄器は本州ではあまり制作されていませんでした。彼らはより良い漁をするために自ら鉄くずを精錬し、海獣漁のための頑丈な鋼の銛先ヤスをつくりだしていたのです。
 ほかに、この遺跡を代表する遺物として擦文式土器骨角器があります。
 擦文式土器は、北海道独自の土器が、当時の本州の職人が作る土器(土師器)の影響を受けて誕生した土器です。奥尻島を始め、北海道一円に分布していました。しかし、奥尻島の擦文式土器は、北海道本島(主に道央・道東・道北地方など)と形や文様で異なり、本州の土師器(はじき)の影響がより濃く認められるといいます。
 骨角器は鹿角やアシカの肋骨を加工して作った道具で、主に銛の柄などに使われてきました。青苗貝塚出土の骨格器の資料は擦文時代における最大の質と量を誇ります。

青苗地区の遺跡分布図
青苗地区の遺跡分布

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